感情の探究(II):アダム・スミス、『ミッドサマー』

 前回の感情の探究(I)では「共感」という現象を軸に、「自己」の境界の曖昧さについて述べ、その曖昧さが生み出すものの一例として芸術を挙げた。今回は、共同体について論じる。それは、共感という現象が、共同体に深く関わっているからだ。ここでの共同体とは、私たちが生きていく上で不可欠なものであり、「社会」や「村」と言い換えても差し支え無いが、とにかく人間が「共に生きる」ことで生じる領域である。

 

 社会の根幹に、「共感」という極めて感情的な現象を据えた思想家としてアダム・スミスが挙げられる。スミスは経済学を基礎付けた古典『国富論』(1776)の著者として有名だが、道徳哲学者としても知られており、1759年に『道徳感情論』を公刊している。『国富論』が「市場」や「分業」を出発点とし、「社会」を豊かにするための原理を考えた著作であるならば、『道徳感情論』はその「社会」を構成する人間の本性についての考察だ。以下は『道徳感情論』冒頭の引用である。

 

 いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの推進力が含まれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他に何もない。哀れみや同情がこの種のもので、他人の苦悩を目の当たりにし、事態をくっきりと認識したときに感じる情動に他ならない。我々がしばしば他人の悲哀から悲しみを引き出すという事実は、例証するまでもなく明らかである。*1

 

 ここで述べられているのは、いわゆる人間の共感の力であり、その感情は「手の施しようがない悪党や、社会の法のもっとも冷酷かつ常習的な侵犯者でされ、それをまったくもたないわけではない*2」。このように『道徳感情論』では、人間の社会的な側面が分析されている。

 『国富論』と『道徳感情論』の両著作について考えるとき、それらは表裏一体の関係にあると言えるのではないだろうか。すなわち、『国富論』における「市場」が利己的な個人を前提にしているとすれば、『道徳感情論』はその「市場」の論理の外部である個人の道徳的な側面を示している。お互いが補完的な役割を担いながら、アダム・スミスの思想は形成されているのだ。

 しかしその片面のみが取り出され、リカードマルサスを経由したのち、近代経済学が成立した。もちろん経済学という学問において、『道徳感情論』的な人間性の探究の余地は残されていない*3。学問としての独立性を獲得したことで、経済学は資本主義を下支えする強力な理論となったのだ。こうしてマルクスの言う人間の「疎外」が、学問的にも表出したと言えるだろう。次第に人間は、利己的で資本の論理に従順な存在として、社会を構成するようになった。

 

 現代において、共同体の次元に属していたはずの「感情」や「共感」といった要素は、「マーケティング」という名の下で、資本主義に取り込まれてしまう。現代は、感情的欲求をお金で満たせる時代だ。しかし、それが達成されるのは、お金を払うという限定的な条件においてのみである。その満足感は一時的なものであり、人間の本能から生じた無条件的な紐帯(社会の結びつき)には敵わない。つまり、私たちはそういった感情的な紐帯を欲する本能を持ち合わせており、その本能は金銭だけでは満たしきれない。億万長者が必ずしも幸福でないのは、そのためだ。私たちには、家族や利害関係のない友人など、無条件的な「共同体」の感覚が必要である*4

 しかしながら、近代化(ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行)と共に、私たちの感情的な本能を満たせる場は少しずつ減っているのが現状だ。結果として、物質的には恵まれながらも、「孤独」を感じやすい社会が成立する。ここでの「孤独」とは、人間の感情的な本能が、断続的にしか満たされない状態である。

 

 こうした実情を寓話的に描いた映画が『ミッドサマー』*5だ。この映画は、主人公ダニーの「救済」がテーマとなっている。ネタバレになってしまうので詳述はしないが、ダニーは感情的に不安定であり、彼女のコミュニティ内では自身の感情を共有したいという欲望が達成されない。一方、彼女らが訪れるホルガ村は、近代的な社会とは対照的だ。そこでは、「個」より「共」の論理が先行しており、近代的な自己の枠組みが存在していない。(感情を共有するシーンは印象的である。)故にホルガ村は、ダニーにとっての救済の地となるのであった。

 先ほど『ミッドサマー』を「寓話的」と述べたのには理由がある。それはこの作品が、資本主義のイデオロギーが支配的となった社会が必然的に引き起こす問題を、明らかにするからだ。その問題とは、前述した通り「孤独」の表れである。主人公ダニーの「孤独」は物語的に誇張されすぎているのかもしれないが、それでも私たちは彼女の苦しみに共感することができる。彼女の「孤独」によって、現代社会にありふれた精神構造が示されているのだ。

 

 ホルガ村とは違った形で、すなわち近代的な主体を維持しながら、共同体の感覚を再構築することが現代の課題である。オンラインサロンをはじめとして、中小規模のオルタナティブなコミュニティを作る試みは、至る所で行われている。その是非はここで問わないが、ある層の人々にとって心の支えとなっていることは、間違いない。そういったコミュニティは、今後よりいっそう不可欠になっていくだろう。

 人間はいつの時代も、感情の共有を求めている。この欲求は共同体の地盤であるし、前回の内容を踏まえるのであれば、芸術の地盤でもある。近代に成立した資本主義は、その発展のために感情的なものを捨象せねばならなかった。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」という有名なスローガンが指摘する通り*6、資本制は現在私たちに与えられた唯一の可能性である。しかしそれでも私たちは、その起源まで遡り資本主義の外部について考えることができるのだ。真に悲観的になるべきなのは、その起源が忘却されたときだろう。

*1:アダム・スミス道徳感情論』、高哲男訳、講談社学術文庫、2013年、30頁。

*2:同上。

*3:行動経済学で扱われる心理や感情は、それが経済活動に結びつく限りでしか有効にならない。

*4:付け加えるのであれば、億万長者が仮に家族や友人関係に恵まれていたとしても、彼/彼女自身が資本主義の論理を強く内面化している場合、「共同体」の感覚は得にくい。本能的な次元ではそういった人間関係を求めつつも、頭(理性)では資本を第一に考えているという齟齬が発生するためである。

*5:https://www.phantom-film.com/midsommar/

*6:フレドリック・ジェイムソン、マーク・フィッシャーを参照。