みかん

東京駅八重洲口のトイレには、みかんがあった。東京の狭いトイレ。並んだ小便器の間にビニール袋が置いてあって、その中にはみかんが十個ほど入っていた。もちろん正確な数は数えていないが、3x3よりも少し多い気がしたので、十個ほど。その日は三が日の最終日だったので、帰省して実家から持ち帰ったみかんなのだろうか、新幹線でお酒を飲み過ぎて置いてきてしまったのか、それとも親の優しさが重過ぎたのか、色々なイメージがかけめぐり、トイレをあとにした。そのみかんは、蜜柑ではなかった。ミカンでもないみかん。みかんは触ると美味しさが分かる。空気のたくさん入ったみかんは不味いし、救いようがないけど、あのしわしわとした実は触り心地がいい。きっとみかんを食べたことが無かったら、あのみかんも美味しく感じるはずで、みかん評論家でもないのに美味しいみかんの理想像が口の中にあることに驚く。アルミ缶の上にあるみかん、は人生で最初に知ったかもしれないダジャレだった。

 

ダジャレで笑うとき、何について笑っているのかが分からない。アルミ缶とあるみかんはイントネーションが全然違っていて、一度頭のなかで文字に変換しないと両者の一致には気づくことができないはずだ。だから人はダジャレを言うときに、「俺たちは文字が読めるんだぞ」という高揚感を共有しているのかもしれない。文字を知らなかったらダジャレは面白くないのだから。あるみかんのうえにあるみかん、と文字で書いてもそれは自明すぎて全く面白くない。語ることと書くことの間には、私たちが思っている以上の溝があるようだ。会議で議事録を書いていると、会議の冗長さに驚く。

 

冗長さの「冗」は、上にかっこの片割れ[が被さっているようで可愛いし、その相方]も連れてきたくなる。引用した文章の省略に使われる[…]は魅惑的で、タップしたら省略した部分が浮き出てきたら良いのに、と時々思う。冗長の冗は冗談の冗でもあり、ダジャレは冗談で、文章が渦を巻きながら循環している。パリの凱旋門にはエレベーターが無くて、螺旋階段を登らなければいけなかった。上から見た螺旋階段がとても綺麗で、そのせいか凱旋門の屋上から見た景色の記憶はほとんどない。頑張ったら思い出せる気もするけど、それはどっかでみたパリの映像や写真の寄せ集めでしかなくて、螺旋階段を登り切って屋上に出たあとの記憶は真っ白な光に包み込まれている。その光のスクリーンを背景に、映像や写真の寄せ集めがパノラマを構成して、After Effectsでやった2D写真から3Dの映像を作り出すあの作業画面を思い起こさせた。世界はAfter Effectsで出来ている。

 

旅先で写真を撮ると、写真の引力はすごくて、帰った後の記憶がその写真に引っ張られるようになる。だから旅行中はなるべく写真を撮らないし、写真を撮るときはその旅行の空気を含み込んだものでなければいけない。テンションが高いのにテンションが低い写真や、テンションが低いのにテンションが高い写真を無理やり撮ると、あとから見返したときに訳が分からなくなってしまう。そこに残っているのは、その写真と「私は〇〇に行きました」という事実だけで、旅行中の時間は綺麗に抽象化され切り捨てられる。しかし私たちは、旅行中の時間を過ごすために旅行に行くのであり、写真と事実を集めに行くわけではない。だから旅行中の時間を上手く持ち帰ることについては、慎重に考えなければいけない気がする。身体の気分に合った写真をもっと撮れるようになりたい。