感情の探究(I)

 「共感」というのは不思議な現象だ。物質的には隔たりがあるはずの他者と、私たちは感情を共有することができる。喜んでいる人を前にして何となく嬉しくなったり、悲しんでいる人を前にして何となく心苦しくなったりするのが、人間の常だろう。もちろん共感の形は様々であり、そこにはある程度先天的な要素も含まれる(「サイコパス」と呼ばれる人々には共感の能力が著しく欠如している)。何にせよ一般的に「共感」という現象は、人間が感情を持つ生き物であることを前提とし、その感情が他者へと差し向けられてしまう可能性を示している。つまり共感とは、自己から感情が「流出」する体験だ。

 そして、私たちが感情を流出させる対象には、人間だけでなく、ありとあらゆるモノが含まれる。例えば、自分の好きな服や車などを見たとき、自らの感情はその対象へと向かい、自分と対象の境界が曖昧になる。つまり、私たちは日常生活において主体/客体(もしくは自己/その外部)の境界を理性的に判別しながら生きているが、何らかの感情を抱く瞬間、その区分は不明瞭になってしまう。

 もちろん原理的に考えると、感情は体内で起こっているだけの現象に過ぎないのだが、それが自らの五感と結びつく限りにおいて、私たちは感情が自分の外部へ「流出」しているように感じる。すなわち、何らかの人やモノに感情を抱くとき、私たちはその人、もしくはそのモノを「自分の一部のように」感じていると言ってよい。これは肯定的な感情だけでなく、否定的な感情の場合も含む。「嫌いは好きの裏返し」とよく言われるが、両者は感情が流出しているという点で一致する。何かに対して感情を抱く際、私たちはその対象を自分と同一化させているか、自分と不可避的な関わりを持つ何かとして捉えているのだ。

 

 以上見てきたように、私たちの感情は常に外へと開かれている。自身の身体からはみ出てしまうもの、という意味合いを込めて、人は感情の「オーラ」を持つと言ってよいかもしれない。知覚と不可分な形で結びついている感情は、それ自体において主体/客体を判別することは出来ないため、私たちの「外部」であるはずの世界へと浸透していく。その浸透先が人間であるとき、共感という現象が起こるのだろう。共感とは、「私」と「あなた」の境目があやふやになってしまうことである。

 人混みの中を歩いているとき、私たちは他人への関心をほとんど持たず、感情のオーラは小さく留まる。反対に、気心の知れた友人たちと集まっている際、感情の流出する範囲は広がっていく。好きな物に囲まれている場合や、美しい景色を目の当たりにしたときも同様だ。壮大な自然の絶景を観ている私は、地平線の彼方まで自己が溶けていくような感覚を覚える。動物は常に、この非人称的な境地を生きているのだろう。

 

 感情が流出して、主客未分の(主体/客体が分かれていない)状態に近づくとき、芸術は生まれる。それは、理性的な自己の境界を揺るがせながら、素材と対話するような体験である。上妻世海が述べていた「制作的空間」は、まさにここで立ち現れるはずだ。私たちは、絵画であれば「描くこと」と「見ること」、小説であれば「書くこと」と「読むこと」が、二重化する「制作」という体験を通じて、その空間へと降りてゆく*1。ここでの「制作」とは、作品ではなく身体の「制作」であると考えたほうがよい。つまり、「制作」をするのに必ずしも芸術家である必要はなく、例えば鑑賞という行為を通じて、私たちは身体感覚を変容させる。しかしそのためには、自らの「外部」にあるものとして作品を捉えてはいけない。自身の感情を作品へと浸透させ、作品を自己の一部のように感じながら、対話を続けていく必要がある*2

 巷の(映画、音楽、ドラマなどの)ヒット作は、その芸術の形式に詳しくない人からでも感情を引き出すような、不思議な仕掛けに満ち溢れている。それらの作品を享受することは、大変贅沢な体験である一方、浅くインスタントな感情の流出を私たちに習慣づけてしまう可能性もある。これは、SNSの利用などにも共通して言えることだろう。身体的変容を伴わない消費行動には、ある種の虚無感が伴う。では、どうすればそこから抜け出せるのか。繰り返しにはなるが、作品もしくは自分が興味をもったものに対して、自らの感情を深く浸透させ、自分の一部として取り込んでいくような感覚を掴むことが鍵になる。

 

 前回の「(主観的な)時間と芸術ついての試論」で述べたとおり、芸術は私たちの生の感覚を研ぎ澄ますものだ。その感覚の柱となるのが、感情だと言っても過言ではないだろう。感情は、近代的な「自己」という枠組みが自明でないこと、そして「私」が世界と常に繋がっていることを示唆する。私たちの感情への探究は、始まったばかりだ。次回は、共同体における感情について、考察していく。以下の引用は、その伏線である。

 

 かぼちゃの種子の生命力が、種子や土、太陽や水の所産であって、人間の手によっては作られないものであるのと同じように、「生きる喜び」も本当は、周囲や自然や環境から与えられるものであって、自力で作り出せるものではない。ところがいまは、何でも「個人」ということが強調されて、その「個」が「全の上の個」であるということを忘れている。大自然には通い合う情があり、一つ一つの情緒はその情の一片である、ということが忘れられている。それで、日々の生き甲斐までわからなくなった。自他を分断し、周囲から切り離された「私」の中から、生きる喜びが湧き出すはずもない。*3

*1:上妻世海『制作へ』p.31。表題のエッセイはリンク先から読むことができる。http://ekrits.jp/2018/10/2760/

*2:芸術作品に感情を浸透させていくということは、自らの感情のオーラを放出することに等しい。ここで私たちは、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』における「アウラ(オーラ)」の概念を想起することができる。ベンヤミンは「アウラ」を厳密に定義していないが、事象の一回性に起因する現象であることは間違いない。その射程は芸術のみに絞られているものの、感情の「オーラ」とそれほどかけ離れた概念ではないだろう。ただし、ベンヤミンの「アウラ」は「オーラ」よりも閾値を高く設定していることに注意されたい。故にベンヤミンは「アウラの喪失」を提唱することができた。

*3:森田真生『数学する身体』p.176-177。なお、引用部は著者が数学者岡潔の思想について語っている箇所である。