言語の難しさ

 言語を使う、とはどういうことか。それは、言葉を通して情報を吸収し、言葉を用いて人に何かを伝えるということだ。私たちは日常的に言語を使っているが、その作業は常に上手くいくわけではない。ここでは「読むこと」を切り口に、言語を扱うことの難しさについて考えてみたい。

 

 私たちは日々何かを読んでいる。ニュースの記事やSNSの投稿、仕事のメールや文庫本など、その例を挙げればキリがない。何より今、あなたはこの文章を読んでいる。文章を読むとは、「この文には何が書かれているのか?」という解釈を行なっていくことだ。文章に限らず、人に直接話しかけられた時も、私たちはその人の言葉を「読み」解いている。では、「読むこと」の難しさとは何か。

 読む際には、まずその文が、何を「意味」しているのかを明らかにしなければいけない。ここで重要なのは、その「意味」が読み手によって与えられるということである。すなわち、ある文章が理解されるためには、その文章を構成する単語それぞれの意味を、読み手が事前に了解していなければならない。例えば、「りんご」という単語を理解できるのは、読み手がその果物にまつわる何らかの記憶を持っているからである。つまり「りんご」という言葉は、その人が「りんご」を見た経験、食べた経験に下支えされている。その人の人生経験が、単語の意味を成り立たせているのだ。

 そのため同じ単語でも、その単語を受けて想起するものは当然、人によって異なる。極端な例を挙げるのであれば、料理人にとっての「りんご」、植物学者にとっての「りんご」、画家にとっての「りんご」、これらの「りんご」は全て異なった経験によって裏打ちされている。彼らがその言葉を聞いたときに、瞬時に浮かび上がる感覚は、決して同じものではないだろう。

 この事を踏まえた上で、「読むこと」の難しさは明らかになる。私たちは文章を読む際に、その文と自らの経験を突き合わせて「意味」を生み出すが、その「意味」が文章の書かれた意図と合致するとは限らない。つまり読み手は常に、書き手と食い違ってしまう危険性を孕んでいる。これは反転させると「書くこと」の難しさ、人にものを伝えることの難しさ、でもある。その難易度は、文章が抽象的であればあるほど高くなる。理由は、その文章の意味を支える経験が、一般的な日常生活から外れてくるからだ。例えば、哲学でよく使われる「自我」や「実体」といった単語は、まず日常生活には登場しない。これらの抽象的な単語は、日常の経験というより、これまでの哲学者がどのようにその単語を使用してきたか、という「歴史」によって支えられている。つまり、(哲学に限らず)抽象的な言語の理解には、その「歴史」が入り込んできてしまうのだ*1。人々が必ずしも、同じ歴史観を共有しているわけではないことは、言うまでもないだろう。書き手と読み手の間には、常にそういった緊張関係がある。私が今書いているこの文章が、必ずしも(私の想定した形で)あなたに届くとは限らない。書き手は一種の「賭け」に出る必要がある。

 

 私たちは通常、そうした言葉の食い違いを避けるため、コミュニティごとに言語を使い分けている。家族との間で交わされる言葉、職場で交わされる言葉、友人と交わす言葉、これらは全て異なりうる。それぞれに特有の言語のルールが存在するのだ。そのルールとは、コミュニティ内で共有された記憶・体験に従うことである。私たちは無意識的にそのルールに従っており、それはつまり「空気を読む」ことでもある。

 人はその言葉の届け先を想定しながら、文章を書く(もしくは発言する)。これは、マーケティングのようなものだ。顧客層を考えながら商品が開発されるように、読み手に寄り添いながら文章は書かれていく。もしくは、聞き手のことを考えながら、発言は行われる。対話とは、このような「考慮」の上で初めて成り立つ。もちろんこの考慮が、常に成功に終わるとは限らない*2。しかしそれでも私たちは、この考慮を自然に行いあえる空間にいる限り、言語の難しさを忘れることができる。だから人はしばしば、言語が(上述したように)複雑なものであることを忘れてしまう。

 

 最後に付け加えるのであれば、このような「言語の難しさ」が特に露呈するのは「政治」の場面である。なぜなら政治家は、自らの言葉を国民全員が理解できるように発信せねばならないからだ。そこで想定されている読み手/聞き手の範囲は、限りなく広い。特に「政治的な言語」がまともに共有されていない日本において、その困難は計り知れないだろう。どういうことか。

 民主主義における政治家は、自身の業務をプロとして遂行すると共に、その内容を国民に言葉で伝えなければいけない。しかし日本では、後者の言語化のプロセスが疎かにされてきた。というのも、民主主義という政治の仕組みも、日本国憲法も、それは常に日本の「外部」から到来したものとして受容されたからだ。現行の政治体制は、「なぜ民主主義か」「政治は何を目指すのか」といった指標が日本語で上手く共有されないまま、なんとなく国民の生活に馴染んできた。だから日本は、本当の意味での「政治的な言語」を欠いている。それは、政治とはこのようにあるべき、という「建前」が上手く国民に共有されていない、ということでもある。本来政治の中心に位置すべき、言葉の力が日本では大変弱く、その弱さこそが日本の政治の「空気」となってしまった。それは、何となく統治を行なっている、という空気感である。そしてこの「空気」はまさに、あるべき「政治的な言語」が十分に構築・共有されていないことによって作り出されている。日本特有の政治の問題の多くが、その根っこの部分において、「言語の難しさ」と関わっているのだ。

*1:常に既に歴史と関わっていること、関わらざるを得ないこと、これこそが学問の特徴である。

*2:なおこの記事は、哲学に「少し」興味がある読み手を想定して書かれている。

触ること、触れること

 五感の中でも、触覚の果たす役割はどこか特権的だ。他の感覚と異なり、触覚は身体全体と関わっている。日常生活の中で特段意識されることは少ないが、頭頂部から手足の指先まで、皮膚の感覚は常に働いている。この感覚に不快感を与えないことは、私たちが何をする上でも重要だ。適切な温度調節や良い生地の服(肌着)の着用は、欠かせない。数百年前と比較すると現代は、遥かに触覚に負担をかけなくて良い時代になったと言えるだろう。それゆえ他の五感と比較すると、触覚に積極的な注意が払われることはあまり多くない。

 

 とはいえ、触覚は時代に合わせて大きな役割を果たし続けている。コンピュータの爆発的な普及にはGUIグラフィカルユーザーインターフェース)の開発が不可欠であった。これは言わば、「触るように」システムを操作できる様式のことである。今ではマウスだけでなく、タッチスクリーンを通じて、文字通り触って操作ができるようになった。スマホは、触るものであるが故、気持ちよく操作が出来るし、ついつい長時間いじってしまうのだろう。人は道具に触れ、それを自分の身体の延長として使用する。

 

 また、性行為は触覚無しには考えられない。それは、触れたい/触れられたい欲望の具現化であるとも言える。奇妙な言い方ではあるが、愛は触覚の上に成り立っているのだ。これは、恋人同士に限った話ではない。歴史的にみても人間は、愛や信頼といった無形の絆を、握手やハグなどの身体的接触と共に築いてきた。

 

 触ることや触れること、これらは時に犯罪になりうるし、現代では非常にプライベートな領域だと見なされている。コロナ禍では、身体的接触がタブーなものとなり、その傾向がさらに強まった。だからこそ私は、今まで以上に、個々人が触覚について考える必要が出てきたように思う。まずは、自分の着ている服の着心地や、身の回りのものの触り心地を確かめるだけでもよい。皮膚の各部位ごとに、感じ方は異なるはずだ。

 

 人間は有機的な存在であり、機械のように交換可能なパーツから成り立っているわけではない。すなわち人間は、どんな時も一つの「身体」として行動しているのであって、それは静かにものを考えているときも同様である。生活の中心として触覚を意識することは、日常に全身を巻き込んであげることだ。皮膚に着目すると、その奥にある筋肉や骨のつながりも見えてくるようになる。重力に対して自然な骨の位置を取れば、次第に身体も軽くなっていく。

 

 いくら技術が発達しようと、人間の根幹が身体的な次元であることに変わりはない。この無意識の領域を少し意識化してあげるのは、社会環境の変化が激しい時代ならではの処世術ではないだろうか。

感情の探究(II):アダム・スミス、『ミッドサマー』

 前回の感情の探究(I)では「共感」という現象を軸に、「自己」の境界の曖昧さについて述べ、その曖昧さが生み出すものの一例として芸術を挙げた。今回は、共同体について論じる。それは、共感という現象が、共同体に深く関わっているからだ。ここでの共同体とは、私たちが生きていく上で不可欠なものであり、「社会」や「村」と言い換えても差し支え無いが、とにかく人間が「共に生きる」ことで生じる領域である。

 

 社会の根幹に、「共感」という極めて感情的な現象を据えた思想家としてアダム・スミスが挙げられる。スミスは経済学を基礎付けた古典『国富論』(1776)の著者として有名だが、道徳哲学者としても知られており、1759年に『道徳感情論』を公刊している。『国富論』が「市場」や「分業」を出発点とし、「社会」を豊かにするための原理を考えた著作であるならば、『道徳感情論』はその「社会」を構成する人間の本性についての考察だ。以下は『道徳感情論』冒頭の引用である。

 

 いかに利己的であるように見えようと、人間本性のなかには、他人の運命に関心をもち、他人の幸福をかけがえのないものにするいくつかの推進力が含まれている。人間がそれから受け取るものは、それを眺めることによって得られる喜びの他に何もない。哀れみや同情がこの種のもので、他人の苦悩を目の当たりにし、事態をくっきりと認識したときに感じる情動に他ならない。我々がしばしば他人の悲哀から悲しみを引き出すという事実は、例証するまでもなく明らかである。*1

 

 ここで述べられているのは、いわゆる人間の共感の力であり、その感情は「手の施しようがない悪党や、社会の法のもっとも冷酷かつ常習的な侵犯者でされ、それをまったくもたないわけではない*2」。このように『道徳感情論』では、人間の社会的な側面が分析されている。

 『国富論』と『道徳感情論』の両著作について考えるとき、それらは表裏一体の関係にあると言えるのではないだろうか。すなわち、『国富論』における「市場」が利己的な個人を前提にしているとすれば、『道徳感情論』はその「市場」の論理の外部である個人の道徳的な側面を示している。お互いが補完的な役割を担いながら、アダム・スミスの思想は形成されているのだ。

 しかしその片面のみが取り出され、リカードマルサスを経由したのち、近代経済学が成立した。もちろん経済学という学問において、『道徳感情論』的な人間性の探究の余地は残されていない*3。学問としての独立性を獲得したことで、経済学は資本主義を下支えする強力な理論となったのだ。こうしてマルクスの言う人間の「疎外」が、学問的にも表出したと言えるだろう。次第に人間は、利己的で資本の論理に従順な存在として、社会を構成するようになった。

 

 現代において、共同体の次元に属していたはずの「感情」や「共感」といった要素は、「マーケティング」という名の下で、資本主義に取り込まれてしまう。現代は、感情的欲求をお金で満たせる時代だ。しかし、それが達成されるのは、お金を払うという限定的な条件においてのみである。その満足感は一時的なものであり、人間の本能から生じた無条件的な紐帯(社会の結びつき)には敵わない。つまり、私たちはそういった感情的な紐帯を欲する本能を持ち合わせており、その本能は金銭だけでは満たしきれない。億万長者が必ずしも幸福でないのは、そのためだ。私たちには、家族や利害関係のない友人など、無条件的な「共同体」の感覚が必要である*4

 しかしながら、近代化(ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行)と共に、私たちの感情的な本能を満たせる場は少しずつ減っているのが現状だ。結果として、物質的には恵まれながらも、「孤独」を感じやすい社会が成立する。ここでの「孤独」とは、人間の感情的な本能が、断続的にしか満たされない状態である。

 

 こうした実情を寓話的に描いた映画が『ミッドサマー』*5だ。この映画は、主人公ダニーの「救済」がテーマとなっている。ネタバレになってしまうので詳述はしないが、ダニーは感情的に不安定であり、彼女のコミュニティ内では自身の感情を共有したいという欲望が達成されない。一方、彼女らが訪れるホルガ村は、近代的な社会とは対照的だ。そこでは、「個」より「共」の論理が先行しており、近代的な自己の枠組みが存在していない。(感情を共有するシーンは印象的である。)故にホルガ村は、ダニーにとっての救済の地となるのであった。

 先ほど『ミッドサマー』を「寓話的」と述べたのには理由がある。それはこの作品が、資本主義のイデオロギーが支配的となった社会が必然的に引き起こす問題を、明らかにするからだ。その問題とは、前述した通り「孤独」の表れである。主人公ダニーの「孤独」は物語的に誇張されすぎているのかもしれないが、それでも私たちは彼女の苦しみに共感することができる。彼女の「孤独」によって、現代社会にありふれた精神構造が示されているのだ。

 

 ホルガ村とは違った形で、すなわち近代的な主体を維持しながら、共同体の感覚を再構築することが現代の課題である。オンラインサロンをはじめとして、中小規模のオルタナティブなコミュニティを作る試みは、至る所で行われている。その是非はここで問わないが、ある層の人々にとって心の支えとなっていることは、間違いない。そういったコミュニティは、今後よりいっそう不可欠になっていくだろう。

 人間はいつの時代も、感情の共有を求めている。この欲求は共同体の地盤であるし、前回の内容を踏まえるのであれば、芸術の地盤でもある。近代に成立した資本主義は、その発展のために感情的なものを捨象せねばならなかった。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」という有名なスローガンが指摘する通り*6、資本制は現在私たちに与えられた唯一の可能性である。しかしそれでも私たちは、その起源まで遡り資本主義の外部について考えることができるのだ。真に悲観的になるべきなのは、その起源が忘却されたときだろう。

*1:アダム・スミス道徳感情論』、高哲男訳、講談社学術文庫、2013年、30頁。

*2:同上。

*3:行動経済学で扱われる心理や感情は、それが経済活動に結びつく限りでしか有効にならない。

*4:付け加えるのであれば、億万長者が仮に家族や友人関係に恵まれていたとしても、彼/彼女自身が資本主義の論理を強く内面化している場合、「共同体」の感覚は得にくい。本能的な次元ではそういった人間関係を求めつつも、頭(理性)では資本を第一に考えているという齟齬が発生するためである。

*5:https://www.phantom-film.com/midsommar/

*6:フレドリック・ジェイムソン、マーク・フィッシャーを参照。

感情の探究(I)

 「共感」というのは不思議な現象だ。物質的には隔たりがあるはずの他者と、私たちは感情を共有することができる。喜んでいる人を前にして何となく嬉しくなったり、悲しんでいる人を前にして何となく心苦しくなったりするのが、人間の常だろう。もちろん共感の形は様々であり、そこにはある程度先天的な要素も含まれる(「サイコパス」と呼ばれる人々には共感の能力が著しく欠如している)。何にせよ一般的に「共感」という現象は、人間が感情を持つ生き物であることを前提とし、その感情が他者へと差し向けられてしまう可能性を示している。つまり共感とは、自己から感情が「流出」する体験だ。

 そして、私たちが感情を流出させる対象には、人間だけでなく、ありとあらゆるモノが含まれる。例えば、自分の好きな服や車などを見たとき、自らの感情はその対象へと向かい、自分と対象の境界が曖昧になる。つまり、私たちは日常生活において主体/客体(もしくは自己/その外部)の境界を理性的に判別しながら生きているが、何らかの感情を抱く瞬間、その区分は不明瞭になってしまう。

 もちろん原理的に考えると、感情は体内で起こっているだけの現象に過ぎないのだが、それが自らの五感と結びつく限りにおいて、私たちは感情が自分の外部へ「流出」しているように感じる。すなわち、何らかの人やモノに感情を抱くとき、私たちはその人、もしくはそのモノを「自分の一部のように」感じていると言ってよい。これは肯定的な感情だけでなく、否定的な感情の場合も含む。「嫌いは好きの裏返し」とよく言われるが、両者は感情が流出しているという点で一致する。何かに対して感情を抱く際、私たちはその対象を自分と同一化させているか、自分と不可避的な関わりを持つ何かとして捉えているのだ。

 

 以上見てきたように、私たちの感情は常に外へと開かれている。自身の身体からはみ出てしまうもの、という意味合いを込めて、人は感情の「オーラ」を持つと言ってよいかもしれない。知覚と不可分な形で結びついている感情は、それ自体において主体/客体を判別することは出来ないため、私たちの「外部」であるはずの世界へと浸透していく。その浸透先が人間であるとき、共感という現象が起こるのだろう。共感とは、「私」と「あなた」の境目があやふやになってしまうことである。

 人混みの中を歩いているとき、私たちは他人への関心をほとんど持たず、感情のオーラは小さく留まる。反対に、気心の知れた友人たちと集まっている際、感情の流出する範囲は広がっていく。好きな物に囲まれている場合や、美しい景色を目の当たりにしたときも同様だ。壮大な自然の絶景を観ている私は、地平線の彼方まで自己が溶けていくような感覚を覚える。動物は常に、この非人称的な境地を生きているのだろう。

 

 感情が流出して、主客未分の(主体/客体が分かれていない)状態に近づくとき、芸術は生まれる。それは、理性的な自己の境界を揺るがせながら、素材と対話するような体験である。上妻世海が述べていた「制作的空間」は、まさにここで立ち現れるはずだ。私たちは、絵画であれば「描くこと」と「見ること」、小説であれば「書くこと」と「読むこと」が、二重化する「制作」という体験を通じて、その空間へと降りてゆく*1。ここでの「制作」とは、作品ではなく身体の「制作」であると考えたほうがよい。つまり、「制作」をするのに必ずしも芸術家である必要はなく、例えば鑑賞という行為を通じて、私たちは身体感覚を変容させる。しかしそのためには、自らの「外部」にあるものとして作品を捉えてはいけない。自身の感情を作品へと浸透させ、作品を自己の一部のように感じながら、対話を続けていく必要がある*2

 巷の(映画、音楽、ドラマなどの)ヒット作は、その芸術の形式に詳しくない人からでも感情を引き出すような、不思議な仕掛けに満ち溢れている。それらの作品を享受することは、大変贅沢な体験である一方、浅くインスタントな感情の流出を私たちに習慣づけてしまう可能性もある。これは、SNSの利用などにも共通して言えることだろう。身体的変容を伴わない消費行動には、ある種の虚無感が伴う。では、どうすればそこから抜け出せるのか。繰り返しにはなるが、作品もしくは自分が興味をもったものに対して、自らの感情を深く浸透させ、自分の一部として取り込んでいくような感覚を掴むことが鍵になる。

 

 前回の「(主観的な)時間と芸術ついての試論」で述べたとおり、芸術は私たちの生の感覚を研ぎ澄ますものだ。その感覚の柱となるのが、感情だと言っても過言ではないだろう。感情は、近代的な「自己」という枠組みが自明でないこと、そして「私」が世界と常に繋がっていることを示唆する。私たちの感情への探究は、始まったばかりだ。次回は、共同体における感情について、考察していく。以下の引用は、その伏線である。

 

 かぼちゃの種子の生命力が、種子や土、太陽や水の所産であって、人間の手によっては作られないものであるのと同じように、「生きる喜び」も本当は、周囲や自然や環境から与えられるものであって、自力で作り出せるものではない。ところがいまは、何でも「個人」ということが強調されて、その「個」が「全の上の個」であるということを忘れている。大自然には通い合う情があり、一つ一つの情緒はその情の一片である、ということが忘れられている。それで、日々の生き甲斐までわからなくなった。自他を分断し、周囲から切り離された「私」の中から、生きる喜びが湧き出すはずもない。*3

*1:上妻世海『制作へ』p.31。表題のエッセイはリンク先から読むことができる。http://ekrits.jp/2018/10/2760/

*2:芸術作品に感情を浸透させていくということは、自らの感情のオーラを放出することに等しい。ここで私たちは、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』における「アウラ(オーラ)」の概念を想起することができる。ベンヤミンは「アウラ」を厳密に定義していないが、事象の一回性に起因する現象であることは間違いない。その射程は芸術のみに絞られているものの、感情の「オーラ」とそれほどかけ離れた概念ではないだろう。ただし、ベンヤミンの「アウラ」は「オーラ」よりも閾値を高く設定していることに注意されたい。故にベンヤミンは「アウラの喪失」を提唱することができた。

*3:森田真生『数学する身体』p.176-177。なお、引用部は著者が数学者岡潔の思想について語っている箇所である。

(主観的な)時間と芸術ついての試論

 この文章は、現代人の生にとって根本的な主題である(少なくとも私にとってはそのように感じられる)「時間」と「芸術」について述べたものである。ここでの「時間」とは、個々人に内在する主観的な時間感覚のことであり、客観的な指標としての時間ではない。タイトルにあえて括弧書きした理由は、日常生活において「時間」という単語が、後者の客観的な意味を持たせて使われることが多いためである。

 

 私たちにとって時間とは、生きている感覚そのものだ*1。私たちが常に感じている「時間が経過していく感覚」こそが、生きている実感の下地であろう。この事実は、あまりにも自明なため、現代では見過ごされやすい。瞑想やマインドフルネスは、この見過ごされがちである基礎的な感覚に、目を向けるよう教えてくれる。ここで思い浮かべて頂きたいのは、「私」と言った瞬間にその「私」が過去のものになってしまう、そのくらい繊細な時間感覚である。そして、瞬間瞬間で自分を固定的に捉えるではなく、連続的に(時間と共に)推移する自分を考えよう。これこそが「時間が経過していく感覚」である。最もミニマルな「諸行無常」感とでも言うべきだろうか。

 当然ロボットでない私たちは、均質な時間感覚を持ち得ない。仕事に没頭する一時間と退屈な一時間、人に待たされている一時間を、同じ長さに感じる人はおそらく存在しないだろう。それゆえ根本的に「時間」とは、主観的な感覚である。私たちにとって親しみのある「秒」「分」「時」といった客観的なものさしは、文明が生み出した一種の発明だ。「時間」という単語を客観的に共有しうる指標としてのみ使用することは、概念の矮小化となり得る。もちろん、資本制社会を生きる私たちにとってその指標は不可欠だが、「時間」の主観的で豊かな側面にもスポットライトを当てていく必要があると私は主張したい。

 

 思考や五感を通じて得られる感覚、その全ては時間感覚に憑依した形でしか存在し得ない。つまり全ての「主観的なもの」は、必ず時間を伴うと言って良い。それほど根本的で強烈な感覚であるにも関わらず、私たちの日常生活においてこの内的な時間感覚に関心が払われる事は少ない。その理由として端的に、人間が言語を獲得した生き物であることが挙げられる*2。言語を使用する私たちは、事物や現象を抽象化して、言葉を紡ぎ出す。その際捨象されるのが、この時間感覚(これをクオリアと言い換えてもよい。クオリアには必ず時間感覚が伴う。)である。私たちは、各々が持つ(原理的には伝達し得ない)内的な感覚を切り捨てることで、言語を使用したコミュニケーションを可能にしてきた。

 とはいえ私たちにとってこの時間感覚が、根源的な生の感覚であるという事実に変わりはない。芸術の諸形式の中でも、音楽がこれほどまでに多くの大衆を魅了してきた理由の一つは、音楽の提示する時間感覚が、インスタントに私たちの生を揺り動かすからであろう。音楽は、私たちの不安定な時間感覚に、ある種の導きを与えてくれる。音楽を聴くことで人は、レールの上に乗ったような安心感を得られるのだ。特に、西洋音楽の明快なハーモニー観とリズム観は、人々にこの「安心感」を与えることに大きく成功してきたと言える。

 

 もちろん、諸芸術の中で音楽を特権化することが、この文章の狙いではない。ここでの力点は、私たちの時間感覚、そして生の実感にある。私がこと改めて強調したいのは、「私たちが感じることのできる時間は限られている。」という事実だ。これは単に、人であれば皆いつか死ぬ、故に私たちには限られた時間しか残されていない、というありふれた言明の言い換えのように感じられるかもしれない。そう思われても構わないが、とにかく、私たちに残された時間を主観的なものとして捉えることがここでのポイントである。有限の生を生きる私たちにとっては、主観的な時間感覚をデザインしていくことが重要なのではないだろうか。

 例を挙げよう。私はある休日に、YouTubeNetflixなどの映像コンテンツを観ながら一日中過ごすことができる。流行の刺激的なコンテンツを追うだけでも、私の一日はあっという間に終わるだろう。他方、私は別の休日に、スマートフォンやパソコンを一回も起動せず、一日を過ごすこともできる。経験したことのある人は分かるかも知れないが、インターネットを切断するだけで、私たちの一日の体感時間はぐんと長くなる。したがって、もし私が限られた休日をできるだけ長く感じたいのであれば、迷いなく後者の過ごし方を選択するべきである。とはいえ、この基準は誤りだ。ただただ一日を長く感じたいのであれば、自分がなるべく苦痛を感じる環境に身を置くべき、という結論になってしまう。

 けれども、あっという間に感じられるような享楽的な一日は、どれほど好ましいのだろうか。極端な例にはなるが、死ぬまであっという間の人生を、私たちは望むだろうか。私たちの多くは、人生の残り時間をある程度長く感じたいのではないか。

 

 現代を生きる私たちの周りには、時間を短く感じさせる装置、言い換えるのであれば効率的に時間を潰す装置、が満ち溢れている。資本主義はエンドレスに効率化を求める生産様式であるが、そのイデオロギーを高度に内面化した私たちは、余暇まで「効率的に」快楽を求めなければいけないように感じてしまう*3。空き時間が少しでもあればスマートフォンを取り出し、ゲームをしたり何らかの情報を得たりして、「効率的に」時間を過ごさないと気が済まない人は多いのではないか。スマートフォンは、私たちに残された時間を加速させる装置だと言えるだろう。私たちはその恩恵に与る反面、デメリットについても常に自覚的であるべきだ。

 「インターネット中毒」や「スマホ中毒」となった(もしくは、なりかけの)私たちは、時間を減速させる術を身につける必要がある。その術とは、退屈と向き合った際に立ち現れるような、自らの豊かな内的世界を楽しむことだ。各々が持つ、時間感覚と共に生成される知覚や思考に、フォーカスを当てること。無意識的に快楽を追い求めるのではなく、自分が既に持っている生命の感覚に対して敏感になること。これは、自らの生を無条件に肯定することでもある。

 

 「芸術」には、この内なる時間を強烈に喚起させる力がある。芸術を一様に語ることは難しいが、BADSAIKUSHの「自分の感覚を目に見える形で出すだけ*4」というシンプルな定義が、直感的で分かりやすいのではないだろうか。芸術とは、自分の内的な思考や知覚のあり方を、作品という形で提示する営みである。そのため、芸術作品を前にしたとき私たちは、単純に「驚く」。それは、自分と絶対的に異なる他者の、思考や知覚と向き合うことへの感動である。

 分かりやすい例として、キュビズムの絵画を挙げよう。その作品を鑑賞した人は、複数の視点から絵画が構成されていることにショックを受ける。そして、自分がいかに一つの視点からの視覚的情報に固執しているか気づくだろう。例えば、自分の目の前に片手をかざすと、そこには五本の指があるように思える。しかし、右目の手の像と左目の手の像の間にはズレが存在するため、実際には二重の手、十本の指が目の前に現れていることになる。もちろん私たちは無意識のうちに両目の像を合わせているわけだが、これらの像の僅かなズレは、私たちの視覚的対象に豊かな「動き」をもたらす。この「動き」を私は、どのように表現し得るだろうか。目の位置が変わったら、もしくは目の数が増えたら、私たちの視界はどのように変化するのだろうか。このように(具体的な作品を捨象しているため、かなり雑ではあるが)、キュビズムの絵画は、私たちが自明視している内的な感覚と、深く向き合う機会を与えてくれる。

 他にも私が思いつく限りの芸術の例を挙げることは可能だが、ここでは割愛すべきだろう。とにかく、芸術作品を前にして、私たちが力む必要は全くないのだ。自らの内なる流動性に、意識を委ねることができればそれで十分である。また、その作品が、音楽や映画、舞踊などの所謂「時間芸術」でなくても、鑑賞している私たちに時間が付き纏うという事実は変わらない。その時間的な性格こそが、芸術の本質であろう*5

 

 こうして芸術は、私たちの生の感覚を鋭敏に研ぎ澄ましていく。人は芸術を必ずしも必要としないが、現代社会においてそれは一種の逃走線として機能する。その機能とは、資本主義の包摂から常に逃れてしまうような、個の時間的感覚を確保することである。私たちは、自分の人生に残された時間、主観的な時間とどのように付き合っていくのだろうか。芸術という営みはこの根源的な問いを、私たちへと投げかける。

 

 

 自らの内的な感覚と向き合うにつれて、そこには一つの謎が浮かび上がるはずだ。それは「他者」の謎である。他者が存在することへの純粋な驚きは、自己の探究を行うことで逆説的に立ち現れる。そしてその驚きは、全てが当たり前でなくなる地平へと、私たちを連れ戻す。そもそも他者とは何か。私は、他者を知り得ないのだろうか。自己と他者の間に、定かな境界線は引けるのだろうか。また、他者と共に生きるとは、どういうことか。この「他者」の問題こそが、所謂フランス現代思想の大きなテーマの一つであったと言えるだろう。これに関しては、また別の機会に書きたい。

*1:ここでの時間の概念は、言うまでもなくベルクソンの「純粋持続」に依っている。ベルクソンは、実在の本質をこの内在的な持続であると考えた哲学者である。また、時間を主観的な形式と捉えた哲学者としてカントが有名だが、詳細な哲学史における時間概念の変遷についてはベルクソンの講義録『時間観念の歴史』を参照されたい。

*2:動物も言語的なコミュニケーションを行うことは広く知られているため、ここでの正確な表現は「反省に基づく言語」であろう。とはいえ人間/動物の境界はそれほど明確なものではないことも事実だ。その線引きの困難については、宮﨑裕助『ジャック・デリダ──死後の生を与える』第六章にて述べられている。

*3:人々の欲望が資本主義を土台とした文化産業に吸収され、自らの「生きる知」を失っていく現象を、スティグレールは「象徴的貧困」と名付けた。(ベルナール・スティグレール『象徴の貧困〈1〉』)

*4:https://www.vice.com/jp/article/k7qqme/namedaruma

*5:九鬼周造は『文学の形而上学』にて、「芸術の時間的性格は現在的」だがこの現在というのは、「直観によって輪郭づけられた一定の持続を有った現在」であると述べた。このとき九鬼がベルクソンの持続の観念を念頭に置いていることは、明らかだろう。