触ること、触れること

 五感の中でも、触覚の果たす役割はどこか特権的だ。他の感覚と異なり、触覚は身体全体と関わっている。日常生活の中で特段意識されることは少ないが、頭頂部から手足の指先まで、皮膚の感覚は常に働いている。この感覚に不快感を与えないことは、私たちが何をする上でも重要だ。適切な温度調節や良い生地の服(肌着)の着用は、欠かせない。数百年前と比較すると現代は、遥かに触覚に負担をかけなくて良い時代になったと言えるだろう。それゆえ他の五感と比較すると、触覚に積極的な注意が払われることはあまり多くない。

 

 とはいえ、触覚は時代に合わせて大きな役割を果たし続けている。コンピュータの爆発的な普及にはGUIグラフィカルユーザーインターフェース)の開発が不可欠であった。これは言わば、「触るように」システムを操作できる様式のことである。今ではマウスだけでなく、タッチスクリーンを通じて、文字通り触って操作ができるようになった。スマホは、触るものであるが故、気持ちよく操作が出来るし、ついつい長時間いじってしまうのだろう。人は道具に触れ、それを自分の身体の延長として使用する。

 

 また、性行為は触覚無しには考えられない。それは、触れたい/触れられたい欲望の具現化であるとも言える。奇妙な言い方ではあるが、愛は触覚の上に成り立っているのだ。これは、恋人同士に限った話ではない。歴史的にみても人間は、愛や信頼といった無形の絆を、握手やハグなどの身体的接触と共に築いてきた。

 

 触ることや触れること、これらは時に犯罪になりうるし、現代では非常にプライベートな領域だと見なされている。コロナ禍では、身体的接触がタブーなものとなり、その傾向がさらに強まった。だからこそ私は、今まで以上に、個々人が触覚について考える必要が出てきたように思う。まずは、自分の着ている服の着心地や、身の回りのものの触り心地を確かめるだけでもよい。皮膚の各部位ごとに、感じ方は異なるはずだ。

 

 人間は有機的な存在であり、機械のように交換可能なパーツから成り立っているわけではない。すなわち人間は、どんな時も一つの「身体」として行動しているのであって、それは静かにものを考えているときも同様である。生活の中心として触覚を意識することは、日常に全身を巻き込んであげることだ。皮膚に着目すると、その奥にある筋肉や骨のつながりも見えてくるようになる。重力に対して自然な骨の位置を取れば、次第に身体も軽くなっていく。

 

 いくら技術が発達しようと、人間の根幹が身体的な次元であることに変わりはない。この無意識の領域を少し意識化してあげるのは、社会環境の変化が激しい時代ならではの処世術ではないだろうか。