言語の難しさ

 言語を使う、とはどういうことか。それは、言葉を通して情報を吸収し、言葉を用いて人に何かを伝えるということだ。私たちは日常的に言語を使っているが、その作業は常に上手くいくわけではない。ここでは「読むこと」を切り口に、言語を扱うことの難しさについて考えてみたい。

 

 私たちは日々何かを読んでいる。ニュースの記事やSNSの投稿、仕事のメールや文庫本など、その例を挙げればキリがない。何より今、あなたはこの文章を読んでいる。文章を読むとは、「この文には何が書かれているのか?」という解釈を行なっていくことだ。文章に限らず、人に直接話しかけられた時も、私たちはその人の言葉を「読み」解いている。では、「読むこと」の難しさとは何か。

 読む際には、まずその文が、何を「意味」しているのかを明らかにしなければいけない。ここで重要なのは、その「意味」が読み手によって与えられるということである。すなわち、ある文章が理解されるためには、その文章を構成する単語それぞれの意味を、読み手が事前に了解していなければならない。例えば、「りんご」という単語を理解できるのは、読み手がその果物にまつわる何らかの記憶を持っているからである。つまり「りんご」という言葉は、その人が「りんご」を見た経験、食べた経験に下支えされている。その人の人生経験が、単語の意味を成り立たせているのだ。

 そのため同じ単語でも、その単語を受けて想起するものは当然、人によって異なる。極端な例を挙げるのであれば、料理人にとっての「りんご」、植物学者にとっての「りんご」、画家にとっての「りんご」、これらの「りんご」は全て異なった経験によって裏打ちされている。彼らがその言葉を聞いたときに、瞬時に浮かび上がる感覚は、決して同じものではないだろう。

 この事を踏まえた上で、「読むこと」の難しさは明らかになる。私たちは文章を読む際に、その文と自らの経験を突き合わせて「意味」を生み出すが、その「意味」が文章の書かれた意図と合致するとは限らない。つまり読み手は常に、書き手と食い違ってしまう危険性を孕んでいる。これは反転させると「書くこと」の難しさ、人にものを伝えることの難しさ、でもある。その難易度は、文章が抽象的であればあるほど高くなる。理由は、その文章の意味を支える経験が、一般的な日常生活から外れてくるからだ。例えば、哲学でよく使われる「自我」や「実体」といった単語は、まず日常生活には登場しない。これらの抽象的な単語は、日常の経験というより、これまでの哲学者がどのようにその単語を使用してきたか、という「歴史」によって支えられている。つまり、(哲学に限らず)抽象的な言語の理解には、その「歴史」が入り込んできてしまうのだ*1。人々が必ずしも、同じ歴史観を共有しているわけではないことは、言うまでもないだろう。書き手と読み手の間には、常にそういった緊張関係がある。私が今書いているこの文章が、必ずしも(私の想定した形で)あなたに届くとは限らない。書き手は一種の「賭け」に出る必要がある。

 

 私たちは通常、そうした言葉の食い違いを避けるため、コミュニティごとに言語を使い分けている。家族との間で交わされる言葉、職場で交わされる言葉、友人と交わす言葉、これらは全て異なりうる。それぞれに特有の言語のルールが存在するのだ。そのルールとは、コミュニティ内で共有された記憶・体験に従うことである。私たちは無意識的にそのルールに従っており、それはつまり「空気を読む」ことでもある。

 人はその言葉の届け先を想定しながら、文章を書く(もしくは発言する)。これは、マーケティングのようなものだ。顧客層を考えながら商品が開発されるように、読み手に寄り添いながら文章は書かれていく。もしくは、聞き手のことを考えながら、発言は行われる。対話とは、このような「考慮」の上で初めて成り立つ。もちろんこの考慮が、常に成功に終わるとは限らない*2。しかしそれでも私たちは、この考慮を自然に行いあえる空間にいる限り、言語の難しさを忘れることができる。だから人はしばしば、言語が(上述したように)複雑なものであることを忘れてしまう。

 

 最後に付け加えるのであれば、このような「言語の難しさ」が特に露呈するのは「政治」の場面である。なぜなら政治家は、自らの言葉を国民全員が理解できるように発信せねばならないからだ。そこで想定されている読み手/聞き手の範囲は、限りなく広い。特に「政治的な言語」がまともに共有されていない日本において、その困難は計り知れないだろう。どういうことか。

 民主主義における政治家は、自身の業務をプロとして遂行すると共に、その内容を国民に言葉で伝えなければいけない。しかし日本では、後者の言語化のプロセスが疎かにされてきた。というのも、民主主義という政治の仕組みも、日本国憲法も、それは常に日本の「外部」から到来したものとして受容されたからだ。現行の政治体制は、「なぜ民主主義か」「政治は何を目指すのか」といった指標が日本語で上手く共有されないまま、なんとなく国民の生活に馴染んできた。だから日本は、本当の意味での「政治的な言語」を欠いている。それは、政治とはこのようにあるべき、という「建前」が上手く国民に共有されていない、ということでもある。本来政治の中心に位置すべき、言葉の力が日本では大変弱く、その弱さこそが日本の政治の「空気」となってしまった。それは、何となく統治を行なっている、という空気感である。そしてこの「空気」はまさに、あるべき「政治的な言語」が十分に構築・共有されていないことによって作り出されている。日本特有の政治の問題の多くが、その根っこの部分において、「言語の難しさ」と関わっているのだ。

*1:常に既に歴史と関わっていること、関わらざるを得ないこと、これこそが学問の特徴である。

*2:なおこの記事は、哲学に「少し」興味がある読み手を想定して書かれている。