マダン

マダン。川崎の韓国料理。土曜日の夜、まだ早い時間に、東口の仲見世通りを歩いていた。人は少なく、空いている店も多くはない。韓国料理屋を探していたのだけれど、よい面構えのお店には出会えず、そろそろ引き返そうと思った頃合いに、そのお店はあった。邂逅。丸っこい木の看板に、大きめのハングルが二文字、優しい字体で書かれている。「マダン」。お店の外壁は木で、ドアの横には二本、くねくねした木の枝(枝というには少し太い)が生えている。どちらの枝にも顔が彫ってあるが、人の顔というよりは魔除けの顔。この二人がいる限り、呼び込みのバイトは必要ないはず。角地の一階にあるマダンは、角が少し削れていて、その削れた面(麺)にメニューを何品か紹介するパネルが貼ってあった。食べたいのはジャジャン麺。

 

赤い吸い殻入れを横目に、店のドアを引く。中に入ると両脇はお座敷になっていて、お座敷ゾーンからは楽しい軒が飛び出している。真ん中には縦にテーブルが並び、予約をしていない私たちはその手前側に案内された。大食いの四人が焼肉を貪り食べることもできるテーブルに、二人で座る。対面。角ばった木の椅子は、見た目より座り心地がいい。メニューを見ていると、すぐにドリンクのオーダーを聞かれる。おばさんは、テーブルの上に飲み物のメニューが無いことに気づいて、メニューを探しに引き返していった。

 

テーブルの上には、「スマホで注文できます!」というモバイルオーダーの案内(パウチ加工)もあったけれど、その手順をこなすのに必要なQRコードは、私たちに配られていなかった。口頭で注文すると間違えるかもしれないからスマホで注文するなんて、人はよほどロボットに近づきたいらしい。人間が効率化の夢をみるなら、ロボットは非効率化の夢をみるのかもしれない。ロボットだって、新宿御苑の芝生で、桜をみながらごろごろしたい。だから人間は、ロボットになりたいがあまり、ロボットの夢を体現することに注力する。倒錯的な喜び。だけどおばさんは、私たちの注文を、しわくちゃになったレシートの裏に書き留めていたから、ロボットになることには関心がないみたいだった。

 

初めて飲んだスジョンガというシナモンが香るジュースは、メニュー表のソフトドリンク欄のトップを飾っているだけあって、さすがに美味しかった。しつこすぎない爽やかな甘さは、食事のお供に丁度いい。あなたが頼んだボンボンジュースの梨味もだいぶ美味しかったけれど、ご飯を食べながら飲むジュースでは無いなと密かに思った(現に食事中にはあまり飲んでいなかった)。果肉の入ったそのジュースは、遠い夏の記憶を呼び起こしてくれる気がする。果肉の一粒一粒が記憶の断片。記憶を飲んでいる。すぐに口の中で溶けてしまう小さな記憶たち。ボンボンジュースを飲むあなたの横顔は、どこか遠くを見つめている。

 

六品のキムチをほおばっていると、主役のプデチゲ鍋が訪れる。まだ麺はブロックの状態のままだから、時間が必要。店のテレビの液晶では、池上彰が知識をしゃべっていた。池上彰は、寝るときはちゃんとパジャマに着替えて、ふかふかのベッドで眠る。下手をすると、ナイトキャップを被っているのかも。でもこんなイメージは、皆が作り上げた「池上彰」という物知り人物の概念の延長線上でしかなかった。頭の中で、「池上彰」という概念が展開しはじめ、その生活を急ピッチでつくりあげている。休みの日の行動は靄に包まれていて、いまいち上手に想像できない。おばさんは、時折テーブルに来て、プデチゲ鍋をかき混ぜてくれた。

 

ジャジャン麺のほうはセルフでかき混ぜるシステムになってたけれど、私のやり方が悪かったのか、麺が塊になって上手く取り分けられず、おばさんにハサミで切ってもらった。一回ハサミを入れると、もちもちしたジャジャン麺の塊が、綺麗に二人分に分かれる。ジャジャン麺をようやく取り分けると、あなたはプデチゲ鍋を取り分け終えていてくれて、テーブルは麺で埋め尽くされた。二種類の麺は食感が全然違うから、競合する心配は無いけれど。ジャジャン麺は何でも相談に乗ってくれる友達で、プデチゲのほうは口数が多い奴。でもプデチゲの口数の多さに飽き飽きしてしまったのか、ジャジャン麺は早々にいなくなってしまった。テーブルに残されたのは、私たちとプデチゲと六人のキムチ。ジャジャン麺がいなくなったあとの場は、少しだけ殺伐としていた。

 

プデチゲの程よい辛さギリギリのスープは美味しくて、食欲を掻きたててくれたものの、鍋に居座るソーセージ・スパム・ベーコンの三兄弟は、私の胃を着々と重くする。満腹になるにつれて、骨盤が少しずつ後ろに倒れて、姿勢が悪くなった。鍋の中の孤島である豆腐は、終盤になっても熱を帯びていて、食べる人の気を引き締める。熱い豆腐に苦戦する人、それを観察する人。